2012年4月29日(日)BENEFIT2012 山村サロンチャリティ・コンサート@山村サロン

【コンサート第一部】

冷泉



石上和也



冷泉+石上和也+頭士奈生樹セッション


城(+穂高亜希子


冷泉さんと石上さんの音楽を言葉で語るのはむずかしい。というより、まだそのための言葉を持ち合わせていない。一言の印象で言ってしまえば、冷泉さんのは胎動のような音、石上さんのは閃きのような音でした。このセッションでもその印象は変わらず。頭士さんが言葉足らずのギターを鳴らし、そこに冷泉さんと石上さんがそれぞれの色を持って呼応していくことで、少しずつイメージが浮かび上がってくる。しかし浮かび上がってくるイメージとは裏腹に、始めは頭士さんが先頭に立っていたように思えた各々の立ち位置が朦朧としてわからなくなってくる。混沌が形を成しているようで、それはある種とても整然としたものに見えました。
そんな合間を縫ってステージ裏から穂高さんが歩を進め、アコースティックギターを持って中央に立つ。その立ち姿に、なぜか違和感を覚える。散漫になることで均衡を保っていたものが、穂高亜希子というアイコンを得ることで崩れてしまった気がする。もちろん、それぞれはすごく集中している。でも、それぞれの、穂高さんの歌に対する解釈にズレがあったのではないだろうか。そのズレをすべてすくい上げるのには、アコースティックギターでは弱かった気がする。もしもあれがピアノだったらどうだっただろう、と少し考えた。個人的には演奏曲「城」の、崩れていく景色の、そのずっと先を見つめるような頭士さんのあたたかい音色が深く胸に残っている。でもこうして後になって思い返してみると、歌い終えた時に見えたものはたしかにあの「城」だったようにも思えるから不思議だ。そこには、それぞれの想いが交錯していた。そのまま穂高さんは入場時と同じ足取りで、でも逆の道を辿ってステージを後にし、三人を残したセッションも、冒頭とは逆の道を辿るようにして幕を下ろした。

林直人が 2002 年に行ったスピーチのビデオ映写

林直人さんのことはよく知りません。でも山村サロンのオーナーの山村さん、このコンサートの主催者である坂口さんの林直人さんに関するお話を聞くだけでも、その人柄はうかがい知ることができた気がします。お二人が林直人という人物を語る語り口はとてもやさしい。そしてスピーチの映像に映る林直人さん自身も、その語り口と同じやさしい顔をしていた。晩年は喉に癌を患っていたそうで、短いスピーチの中に時折苦しそうな表情を見せることも。それは自分が果たせなかったことへ対する無念の現れにも見えたけど、それよりももっと伝えたいことがあったのだろう。そんな表情はほんの一瞬で、やはりあのやさしい笑顔をたずさえて、一期一会ということについて、静かに語っていました。
スピーチの映像の後、今度は無音の映像に合わせて林直人さんのバンド、Auschwitsの「The Stone Ship」という曲が流された。曲といっしょに一期一会という言葉が静かに頭の中を流れていく。坂口さんは林直人さんのことをもう一人の出演者と言いました。この映像との出会いも、ひとつの一期一会だ。


【コンサート第二部】

穂高亜希子

1. きこえるよ
2. 緑
3. 春風
4. 静かな空
5. 城
6. 悲しみ(熊坂るつこ)
7. 春の雪
8. ひかるゆめ


穂高さんはギターの弦を押さえる時、ひとつひとつの指をたしかめるようにしてコードを作っていく。その所作は自問自答のようにも見えて、そこからくる震えは音色にも現れている。これでいいのだろうか?私は正しいのだろうか?そんな風に言っているように聴こえる。おそらくそれは答えなどないことを知っているからで、逆に歌には迷いがない。きっと穂高さんは迷いがあっては歌えない人だ。答えを持たなくても、意志を持って歌う。「きこえるよ」の歌い出しを聴いて、そう思った。「緑」はそんな意志を自分に対してたしかめるような歌だと思う。たぶんこれからも要所要所で歌われるような、重要な役割を持つ歌。
『ひかるゆめ』発売記念ツアーの名古屋公演の時、「春風」を歌いかけて、「夢のように」に歌い直した、ということがあった。震災を前後して録音された『ひかるゆめ』の中で、この二曲は特別な意味を持つ曲だと思う。むしろこの二曲が『ひかるゆめ』の持つ意味合いを変えてしまったと言ってもいいかもしれない。自分にとっても、とても大切な曲。名古屋公演で聴けなかった「春風」をこの山村サロンで聴けた感慨はとても深いです。自分の中でなにかひとつ、折り合いがついた気がする。そこから「静かな空」、セッションでも演奏した「城」と続いたのも必然的な流れだったように思える。「城」は、今度はピアノでの演奏だった。セッションの時よりも静かで、強い歌。それは音量やアレンジということではなくて、やはりそこには意志がある。
「悲しみ」はアコーディオン奏者の熊坂るつこさんの曲。先日共演したのをきっかけに穂高さんが詞を付けて歌ったもので、るつこさんにはこの日歌うことの許可を取ってきたということです。歌う人が変われば、歌う場所が変われば、歌う時の気持ちが変われば。歌は、その時々でちがう表情を見せる。まだ歌い慣れていないようにも聴こえたけど、それはこの山村サロンで歌うために出会った曲なんじゃないだろうかと思えてくるような、そんな歌だった。人は誰でも悲しみの川を持つ。それは穂高さんの悲しみであり、やさしさだと思う。
穂高さんも先の林直人さんのスピーチで、やはり一期一会という言葉が胸に残っていると言う。「春の雪」はずっと曲ができなかった中でひさしぶりにできた新曲で、歌うかどうか迷っていたものを、林直人さんのスピーチを見て歌うことを決めたそうです。なぜ、なぜ、と問いかけを繰り返す歌詞。答えなどないとわかっていても、口に出してしまいたい時がある。押さえきれない衝動や、隠しきれない感情がある。桜の花を雪にたとえるのは、そんな気持ちを散りゆく花びらに託してしまいたかったからなのかな。雪はいつか消えてしまうけど、きっと胸には残る。どうしようもないことは、そうやって折り合いをつけていくしかないのかもしれません。“桜の花が春の雪のように”と歌うところを最後は“桜の花が春の夢のように”と歌っていて、毎年咲いて毎年散っていく桜はまさに春の夢のような、一期一会の象徴だなと思いました。ひとつひとつが、たしかにつながっていく。
最後に歌ったのは、「ひかるゆめ」。ほんとにここまで、もうこれしかないと思えるようなセットリスト。この曲はアルバム『ひかるゆめ』が完成した後にできた曲だと以前に聞きました。もしかしたらこの曲は、穂高さんなりの『ひかるゆめ』に対する折り合いなのかもしれません。そう、折り合い。ライブの中で何度もこの言葉が頭に浮かんだ。頭士さんの『ひかるゆめ』へのコメントに「あきらめているな」という言葉を目にした時、深く共感すると共に、自分だけではつかみきれないなにかがあったのを思い出す。でもこのライブを通して、その感触が少しずつたしかなものになっていった気がするんです。もしかしたらあきらめとは、折り合いをつけるということではないか。そして折り合いをつけるとは、自分も他人も等しく救済するということではないのか。救済と言ったら大げさかもしれない。でも、もしそれが穂高さんの意志なら、たしかに、ここに、穂高さんの歌に救われた人間がいると声を大にして言いたいです。穂高さんの歌はやさしい。それだけで十分なのではないのかと、そう言いたいです。

頭士奈生樹

1. ?(夜に咲く星のように)
2. ?(ここには鏡がかかっている)
3. ?(動物たちにも帰る場所がある)
4. 結合の神秘


先も挙げた頭士さんの『ひかるゆめ』へのコメント、「あきらめているな」というのは頭士さんの歌にも同じように思ったこと。でもそれは穂高さんの歌に感じたものとは少し意味合いがちがう。穂高さんの歌にはそれが過程の中にあったのに対し、頭士さんの歌にはどこかに到達してしまったかのような悲しみがある。もう先がないとうところから来る、あきらめ。もちろんただの悲しみではなく、そういった境地に立ったからこそ、本当の意味で人を想える純粋な気持ちだと思う。あまりに純粋すぎて触れたらこわれてしまいそうだけど、それはすでに完成されていて、誰にも干渉できないところにあって、触れることができない。そういったなにか崇高なものを頭士さんの歌には感じていました。そんな頭士さんの歌に今まで見えなかった先が見えたのは、穂高さんの歌を聴いた後だったからだと思う。頭士さんにそういう意識があったかどうかはわからないし、頭士さんの歌った曲がアルバムに収録されていない知らない曲だったからというのもあるかもしれません。でも、たしかにその先が見えた気がしたんです。
一曲目の長い長いイントロの中に、ずっと光を感じていた。出口を探してさまようように、でもたしかな足取りを持って重ねられていく光の音。イントロが終わって頭士さんが口を開いた瞬間、その光がふわっと会場中を包んだように見えました。歌い出しに“夜に咲く星のように”とあるように、会場中を包んだ光が次々と星の花を咲かせていくような、なんとも美しい光景。その光景は穂高さんの歌った「春の雪」からつながっているようにも思えました。フレーズをサンプリングさせて新たに奏でられるギターソロは星の瞬きや星座を形作っていくようで、息を飲んだ。
二曲目も三曲目も、色はちがえど一曲目と同じく希望に溢れた歌。今までの頭士さんの歌もある意味では希望を歌う歌ではあったと思うけど、ここまで開けたものではなかったと思う。自分の想いだけに留まらず、自ら先を示してくれているような、誰にも触れられなかった到達点から手を差し伸べられるところまで歩み寄って来てくれたような、そんな感覚。やはりもしかしたら穂高さんの歌を受けての影響があるのかもしれない。少なくとも、自分にはそう思える。二曲目の間奏には光が粒子となって音を鳴らしているように単音を連らねていくパートがあって、きらきらと長く煌いては霧散していくその音の群れを見とれるように聴き惚れた。この曲にはリズム入りのトラックを使用。三曲目の“動物たちにも帰る場所がある”というのは、頭士さん本人もおっしゃっていたように林直人さんと通じている。
コンサートの最後を飾るのは「結合の神秘」。開演から五時間。この間だけでも忘れがたい様々なことがあった。そのひとつひとつが一期一会と言えるのかもしれない。そのすべてを包み込むような、「結合の神秘」。頭士さんの歌声はうわずっているようにも聴こえた。歌い出しには失敗もあった。でも、そういうことじゃない。歌に見るのは、歌い手の意志だ。頭士さんの意志には常に光が灯っている。ギターも歌も本当に素晴らしかったです。これから頭士さんがどんな歌を紡いでいくのか。可能な限り見ていたいと思いました。