2018年12月1日(土)「ギューンカセット25周年記念」 山本精一(Vo.G)、須原敬三(Ba.Cho)、吉田正幸(Key)、伴野健(Dr) 夜の部@難波ベアーズ

羅針盤初期メンバーによる初期羅針盤曲の演奏。そんな目を疑うようなライブ情報をTwitterで目にした時は思わず息を飲んだ。2005年11月、チャイナの死をきっかけに山本精一はGYUUNE CASSETTEの掲示板で羅針盤の解散を宣言。羅針盤の曲は完全に封印され、山本精一は歌うこと自体をやめてしまった。私が羅針盤の歌に出会うのはこれより少し後のこととなる。しばらくの時を置いて、ようやく歌い始めたのが2007年頃。私が初めて歌う山本精一を見たのが2008年11月。その後は比較的コンスタントに歌のライブが催されるようになったものの、羅針盤の曲が歌われることは一度もなかった。ところが2011年2月、京都クラブメトロの山本精一 & The Playgroundのライブで突如「カラーズ」が演奏されたという情報をネット上で見かけたあの時のざわつきは今も忘れない。ごく狭いコミュニティの中ではあるものの、感嘆と動揺の入り混じった各々の想いが出回ったことをよく覚えている。同年、各所で「カラーズ」は演奏され、私も翌年の4月に名古屋で初めて羅針盤の曲に触れることができた。それからは「ソングライン」や「永遠のうた」のような大曲を中心に、その他の羅針盤曲も徐々に解禁されていった。2015年には羅針盤の楽曲のみを弾き語りするなんていうライブも催された。(そのライブの名古屋編)一度は姿を消した羅針盤曲も、時間の経過と共にいよいよ特別でなくなっていった。でもそれは曲としての話だ。今回発表されたライブの内容は羅針盤初期メンバーによる初期羅針盤曲の演奏というもの。あくまで羅針盤の再結成ではありませんというこの言い回しとスタンスはいかにも山本精一らしいけれど、この内容で羅針盤というバンドそのものを意識しない者がいるだろうか。

山本精一(Vo.G)、須原敬三(Ba.Cho)、吉田正幸(Key)、伴野健(Dr)

1. 永遠のうた
2. クッキー
3. 光の手
4. 生まれかわるところが
5. アコースティック
6. ドライバー
7. サークル
8. カラーズ
9. かえりのうた
10. ライフワークス
11. がれきの空
12. せいか
13. ソングライン


encore
14. クールダウン
15. いのち
16. 羅針盤


このライブはギューンカセット25周年記念の一端として開催が決まった。スペシャルな企画だけに昼の部と夜の部の二部制で発表されたが、あまり深く考えずに夜の部を選んだ。なんとなく夜に観たいと思ったからだ。開場時間少し前に会場のベアーズに着くと、近隣の方の迷惑になるので開場時間にあらためて来てほしいとのスタッフのアナウンス。一旦ベアーズを後にし、難波の街を散策してみることにした。日の落ちた路地には自分と同じように待機しているであろうそれらしき人が点在しており、妙な親近感を覚える。自分も含め、みんなそわそわしてたんだと思う。空いた時間に新しく張り替えられたベアーズ入口のテントを写真に撮った。開店以来お店の看板の役割を担ってきたテント。10月の台風の影響で破れてしまったそう。6月に頭士奈生樹 with 渚にてを観に来た時にはまだ古いテントだったはずだけど、愛知県在住でそこまでベアーズに足を運ぶことのない自分には新しいテントとの差異はよくわからなかった。真新しくなったことだけははっきりとわかるテントを眺めながら、一度は解散したバンドの初期メンバーが今日この日限り集まって演奏するということの意味を考える。テントのようにただ張り替えればいいというわけにはいかないことだけは確かだ。やる側にどんな意図や思惑があろうと、自分の目と耳で確かめるしかない。
無事入場し、物販を済ませ、ステージ上を見渡す。向かって右前にギター、左前にベース、センターにドラム、左奥にキーボード、というセット。ベース前のマイクに須原敬三のコーラスを思い浮かべ、うれしくなる。左側のスピーカー前に一席だけ空いていたパイプ椅子に座るとステージの大半はスピーカーに隠れてしまい、ちょうど山本精一しか目に入らないポジションだった。せっかく特別なメンバーが揃うというのに、なんて考えが一瞬頭をよぎったけど、この場で席の優劣のようなことを気にかけるのはなんだかばかばかしく思えた。そうこうしている内にSEがフェイドアウトし、客電が落ちていく。暗くなった会場はまったくの無音とはならず、入力のないミキサーからスピーカーに出力されたサーというノイズがあたりを包み込む。パイプ椅子の軋む音や人の咳払いが耳に入ってきて、明るくざわざわしていた時よりもまわりに人がいるということを実感する。ここには、羅針盤というバンドになにかしら思い入れを抱えた人だけが集まっている。そう思うと、あたりを包むノイズがどこか祈りのように聞こえた。ふいに、バンッという重いドアの開く音。続々と入場してくる面々を目の当たりにして、文字通りなにかが開けたような感覚に襲われる。そんなところに開口一番、「昼の部と曲はいっしょですけど、演奏は全然違うと思います」と山本精一。この人の言うことは100%の興味を持ちつつ、100%信用しないことにしている。
「では始めましょうか」という掛け声に続いて響き渡ったのは「永遠のうた」の、あのイントロ。羅針盤のライブを観たことのない者にとって1曲目から「永遠のうた」が演奏されるということがどれだけ特別なことか。それが羅針盤というバンドの初期を構成していた4名によって鳴らされている。これは羅針盤じゃない。そう心に言い聞かせても、いっぱいになった胸からこみ上げてくる涙を抑えられなかった。羅針盤じゃないけど、これが羅針盤なのかなと思えたこの気持ちを宝物として持ち帰ろうと思った。終盤に次々と繰り出されるいろんな"any 〇〇"。フラットに歌う音源と違い、それぞれに様々な抑揚が付けられたひとつひとつが宝物の象徴のように胸に響く。最後のひとつに"any love"を選ぶ山本精一が、私は好きだ。曲が終わると照明を明るくしてほしいという要望と、「キーボード聞こえてますか」と山本精一吉田正幸のキーボードによる羅針盤感の後押しは大きく、上空から降り注ぐ音色が空間を満たしていくあの感じ。部屋で、CDで、ぼんやりとしたイメージとしてだけ思い描いていた羅針盤らしきものが目の前で展開されていく。ギターのフレーズに音数を重ねて大きくイメージを変えた「クッキー」。シンセの音色がピアノに置き換わることでリリカルになった「光の手」。よく知っている曲が知らない表情を見せていく中、印象的だったのは『らご』の最終曲でもある「生まれかわるところが」。山本精一の歌を芯に据えた音源に近いアレンジながら曲全体にかかるエコーが深く、特にドラムの音が深く深く時を刻む。ひたすらドンッ、タッ、と打刻していくリズムは時に不器用で実直。ドラムの伴野健は初見でどんな方なのか存じ上げないのだけど、勝手ながらその人柄を見た気がします。
一転、エコーが晴れ、カラッとした空気で始まった「アコースティック」。さわやかな曲想とは裏腹に、この歌は静かな苦悩に満ちている。自分だけが取り残されているというこの歌の主人公は、実はとても足が速いのかもしれない。でもそれがどちらでも本質に大差はない。どこにいようと、変わらない過去の中で生きているからだ。歌というものは触れることができないだけに自らを写す鏡になり得る。歌詞の中に二度出てくる"今ならまだ見えるかな"というフレーズに、追い求め続けてきた羅針盤という幻想を投影してしまった。イントロからたっぷりとギターを歪ませた「ドライバー」は、とてもはっきりした歌。自分がどれだけ裏と表を持とうと、この世に神が定めたプラスとマイナスという摂理の外に出ることはできない。でもそれは裏を返せば、いくら結果が限られていようと自分にできることや選べる選択肢自体には無限の余地が残されていると捉えることもできる。ギターの歪みはその摂理への挑戦のようだ。「サークル」も「ドライバー」と並ぶことでそういった構図の延長戦上に感じたのは、やはり山本精一の歌詞には通底した幹のような部分があるからだと思う。間髪入れずに「カラーズ」のイントロが始まる。淡々としたリズムがこぼれ落ちていく。いつからだろう。特に大切でもなかったこの歌が、いつの間にか自分の根っこの部分に流れ続けることとなったのは。須原敬三の刻むベース音のひとつひとつが軽やかにその重みを刻印していく。ふと振り返ると、五線譜でできたベースラインが線路のように延々と続いていた。その線路は目の前にもぐんぐん伸びていって、浮遊感のあるシンセがいつからか確かに芽生えた感情に明かりを灯してくれた。なんの他意もないような「かえりのうた」がたのしげに、抒情的に帰り道への道標を奏で終えたところで山本精一によるメンバー紹介があり、ライブも終盤に差し掛かっていることを予感させる。
一呼吸置いて、不意打ちのように清廉な響きのピアノの音階。「ライフワークス」だった。そんなピアノとは対照的に、本編は蛇の道を行くような危ういメロディ。ここから先は心して行けと忠告されているよう。不穏な空気を漂わせながら曲が終わり、今度は抽象化されたようなピアノが束の間たゆたったかと思うと、太いギターの音が空間を震わす。「がれきの空」。私は生身の羅針盤には間に合わなかった。CDを繰り返し繰り返し聴くことでしかチャンネルを合わせることができなかったからこそ、アルバム1曲目の曲のイントロによるインパクトはあまりに大きい。そうでなくとも、この曲を知る者の多くはこの空の下に地続きで続いていく『ソングライン』というアルバムの向かう先を知っている筈だ。演奏ががれきをまとって歌を埋め尽くしていく様をただただ見守るように俯瞰して、神妙な心持ちで静寂を受け入れる。それほど長くなかったはずの、次の曲が始まるまでのこの間がやけに重くのしかかった。そんな雲間に光差す、「せいか」のあのイントロ。アルバム1曲目の曲2連発。『せいか』は初期羅針盤三部作の中で最初に手に入れたアルバムだった。初めて生で羅針盤曲を聴けた日も、「カラーズ」に続いて演奏された「せいか」。まさに幕の開けるような、胸の奥にじんわりと膨らんでいく音色。歌詞の表現を借りるならば、手の平に包む一瞬の輝き。確かに雨の匂いのする不思議な晴れの日。ずっと大切にしていた羅針盤が通り過ぎていく。拍手をさせてもらう間もなく、「ソングライン」が終わりの始まりを告げる。お祝い事のご祝儀にあやかるような形で舞い込んできた夢のような時間も、もうすぐ終焉を迎える。沸き立つように立ち昇る"待ち続ける"というコーラスが、遥か彼方に聴こえたような気がした。想いは滲み、ステージの下からも発せられていたように思う。声に上げずとも。ライブでのみ歌われる終盤のパートはなかった。やはりあれは後付けのもので、羅針盤初期の頃にはなかったものなのだろうか。某所に上がった2000年のライブ映像を幾度となく見てきたせいか、チャイナ在籍時の羅針盤のイメージが強い。代わりには、うねるように持続するベースラインにタイトなドラム、そしてまばゆく光るキーボードによるアンサンブル。咽び泣く山本精一のギターだけがどこか所在なく、中空を彷徨うように往き交う。すべてが鳴り止んだ後、歌われなかったパートの冒頭だけが、頭の中でつぶやくように浮かんで消えた。"あれは振り返らず"。
アンコールを求める拍手は鳴り止まず、ずいぶんと長い間続いていた。手拍子はリズムを落としたり、また早めたりしながら、奇跡の再来を待つ。山本精一しか見えないポジションだったので、再入場の時がそれぞれの顔を拝める最後のタイミングだった。これが今日という日を演奏してくれた人たち。この人たちが何者かは、自分の中に答えを持っている。それからの時間はあっという間だった。想い出波止場のような面持ちを携えた「クールダウン」。なぜかこの曲だけギターを持ち替えた「いのち」。そして「羅針盤」。終点と始点の交錯するこの区切りの曲について語る言葉を私は持ち合わせていません。自分でも驚くほど穏やかな気持ちで見届けることができ、幸せに思う。客電が戻り、フェイドアウトしたSEの続きが始まる。まるで時間が巻き戻ったかのような錯覚に陥った。ダブルアンコールを求める拍手は、叩くことができなかった。


冒頭で書いたような羅針盤曲解禁初演の情報や山本精一羅針盤解散を宣言した際の掲示板への書き込みのコピペ、おそらく本人の気まぐれで名付けられたであろう数多ある山本精一のユニット名等々、ネットストーキング的に収集した様々な山本精一情報を個人的にまとめたデータベースのようなものを人知れず作成していたのだけど、PCをクラッシュさせた際に紛失してしまった。年月を経てネットの海に沈んでいった情報を再度拾い出すということは至難の業に思われるので、もうする気が起きない。確実に残したい情報はローカルへ、より確実にとなれば手書きなどのアナログへ移行するしかない。それは音楽の媒体としても同じことなのかもしれない。アナログレコードで所有するのがもっとも確実だ。このはてなダイアリーもじきにサービスが終了するという。でもそれでいい。自分の中にある羅針盤というものに対する総括として、ここに記す。