2012年12月23日(日)渚にて ワンマン・コンサート@ベアーズ

12月23日。天皇誕生日だけあって難波の街は右翼団体街宣車であふれていて、師走の冷たい空気の中、あちこちで国歌や軍歌がけたたましく鳴り響いていました。大音量であったにもかかわらず、道行く人々は誰も彼も特にそれを気に留めることもなく。マヤ暦最後の日だのクリスマスだのとあわただしい年末の空気と相まって、すがすがしいくらいなまでに街の風景の一部と化していた。でもその風景を少し俯瞰してみると、目の前のなにかからあえて目をそらしているような後味の悪さが残る。年も暮れが近づいてくると、人は物事を先送りにしたくなるのかもしれない。興味がない。無関心。「どうでもいい」ということは、イコール「どうなってもいい」ということにはならないのか。もしそうだとするなら、それは破滅願望に近い。浮かれた街と人々との間に潜む空虚を見たような気がした。話が大きくなりすぎた。でもこのところ、常々からこの国に感じていたこと。それは先の震災以降、より色濃く浮かび上がってきたように思う。「もう終わりだから」、そんなどこか終末的なムードの中、渚にて五年ぶりのライブ。

渚にて

1. 柴山新曲 5(すごく遠くまで来たよ〜)
2. 柴山新曲 2(おびえてるいつも〜)
3. 柴山新曲 3(ゆれる空ぬれた草〜)
4. 竹田新曲 1(○○の話を教えてあげる〜)
5. 渚のわたし
6. 七つの海
7. 予感
8. 竹田新曲 3(かわいた水草かれたくちびる〜)
9. 柴山新曲 4(もう一度だけもう一度〜)
10. 竹田新曲 2(明日を忘れてあなたと遊ぶ〜)
11. よすが
12. 歌のあとで
13. 柴山新曲 1(サビ:最後に見る夢はいつか本当の世界になるという)


Encore
14. 花とおなじ


初めて目の当たりにする渚にて。ギターに柴山伸二さんとドラムに竹田雅子さんのご夫妻に加え、ベースに山田隆司さんを迎えた三人編成。柴山さんはなにかの写真でも見たことのある赤いアロハシャツ。竹田さんは背中の大きく開いた黒い長袖のカットソー。思い描いたとおりの渚にてだ。特に竹田さんの存在感はやはりすごくて、シンバルの照り返しを受けて時折黄色く光る姿がすごく印象的でした。スティックを振り下ろすしなやかな手つきや淡々とした演奏の中から瞬間的に顔を見せる攻撃性は、狩りを待つ女豹のような凛とした佇まい。同時に、それはとても色っぽくもある。動物的、ということなのだろうか。
開場も開演も押したベアーズはぎゅうぎゅう詰めの超満員。途中、柴山さんからの提案で前の方のお客さんは座ることになりました。前から三列目辺りで観ていたのですが、座ったのと同時にまわりの空気もストンと落ちたような感触があった。こわばっていた会場がふっとゆるんだような気がした。ざわついていた心も落ち着きを取り戻して、ステージがスッキリと見える。この日の渚にては半分以上が新曲のセット。この時点でまだ新曲、つまり知らない曲しか演奏されてないのにもかかわらず、それはどうしようもなく渚にてだった。渚にての歌には、波のようにゆらぐ旋律の中に、ゆるぎない芯が一本通っている。
録音物での渚にてはシンプルなようでいて、気が遠くなるような緻密なアレンジがなされているように感じます。たとえば「渚のわたし」は最初に柴山さんのボーカルで録音され、後に竹田さんのボーカルで再録され、最後にまた新たにアレンジされた音が加えられている。(最後に、というのは「これがファイナル・アンサー」との柴山さんのひとことより。)それは渚にて最初期の着想である“竹田雅子:Wind”というイメージを徐々に具現化し、肉付けしていった結果だろう。そうして積み上げられていったイメージ=アレンジがライブにおいてすべて反映されるわけではなく、むしろ即興的な緊張感を周囲に充満させていくようなステージ。あえてコンタクトを取らない、だからこそお互いを確かめ合うような演奏でした。「よすが」の後、柴山さんが「この曲はかんたんそうに見えると思うけど、ステージ上での緊張感はすごい」と言っていて、いかに神経を研ぎ澄ませて演奏されていたのか、勝手ながら想像してみる。「よすが」は、アルバム『よすが』ではただひたすらに重ねられていくリズムの中に様々な音色が顔を見せる。景色は次々と移り変わっていく。でも、全部同じ場所で鳴っている。柴山さんはそれらすべてを踏まえた上で、さらにまた新たな音を探し求めていたように思えて、全身の力が抜けてしまった。それでもやはり、その音が鳴っている場所はいつもと同じあの場所だ。いつも渚にての歌の向こうに見える、あの渚。
新曲中心のセットであったにもかかわらず新曲のことを書いてないのは、はっきりと覚えていないからです。ただ歌と演奏に集中していて、抽象的な印象だけが頭に残っている。おぼろげに言えるのは、アルバム『よすが』の延長線上でかつ、さらに現世への諦念を深めたような歌であったということ。かろうじて覚えていた歌い出しやサビを記録しておいたので、またの機会にそのイメージを確かなものに変えたいきたい。これだけたくさんの新曲があるのだから、これでまたしばらく活動休止、なんてこともないのではないかと思います。なので、今後の本格始動に期待したい。ただそんな中でも、最後に演奏された曲だけは今でも胸に残っているのです。“最後に見る夢はいつか本当の世界になるという”というサビは、はじめ、本当の世界というところがこびとの世界に聞こえてドキリとした。“こびと”というのは渚にてとも関わりの深い頭士奈生樹さんの詩世界において重要なキーワード。それはおそらく聞き間違いであったのだけど、遠いところでなにかがつながりそうな感触があったのも確か。余談だけど、渚にてでギターを弾く頭士さんもいつかこの目で見てみたいです。そして、次に飛び込んできたのが“本当の世界”。本当の世界とは、ただ思い描くだけの理想郷などではない。いつかたどり着くべき世界だ。ここからつながるその世界を目指して、柴山さんと竹田さんは船を出す。あの渚から。
アンコールは「花とおなじ」。アルバム『こんな感じ』で一度行き着くところまで行き着いた柴山さんと竹田さんの関係性が、次に見た夢のようなものがこの「花とおなじ」という歌だと思う。互いに手を取り合って昇ってきたお二人が、その先で見た夢。おなじ高さの空。おなじ高さの花。そんな思いがあるからだろうか。この歌はいつ聴いても新鮮な気持ちにさせてくれる。アンコールで歌うのは「太陽の世界」か、「本当の世界」か。なんて期待に胸をふくらませていたところに不意を突かれたというのもあったのかな。一呼吸置いて、目を閉じて、柴山さんと竹田さんの後を追って夢を見る。氾濫していく歌と軋んでいくギター。本編の最後に演奏されたあの新曲の歌詞を思い出す。そうして夢を重ねていった先にあるのが、柴山さんの言う本当の世界なのかもしれない。そんな風に思った。


渚にての歌はすべてつながっている。そこに感じるのは現世への諦念だ。でもライブの前に街で感じた、「どうなってもいい」というような空虚さとはまるでちがう。「どうなってもいい」にはちがいないのだけど、それはすべてをまっとうした上での潔いまでの覚悟、いや、覚悟などと言ったら大げさかもしれない。すべてをまっとうするということは、目の前のことがらに真正面から向き合うということだと思う。それは、花や空の美しさを知るということ。風の強さや川の流れを肌で感じるということ。星の輝きや夜の暗さをこの目で見るということ。そこにいるあなたの尊さを確かめるということ。つまり、ただつつがなく日常を過ごすということだと思う。それさえできていれば、あとは「どうなってもいい」のでないか。だからこそ、その諦念の向こうには新しい日常への希望がある。次に見る夢がある。渚にてにとって諦念とは、あきらめとは、後ろ向きの行為ではない。先を見据えるための新しい息吹だ。常に躍動する、渚にての歌から感じる活力のひみつはそこにある。